VAMP UP-SIDE DOWN/『よふかしのうた』/『きゅうけつ』
『よふかしのうた』のアニメを観始めた。1期を。2期が始まってから。ドロナワ。
『だがしかし』が大好きで、『よふかしのうた』も絶対好きだなと思ってたんだけど。原作の漫画をちゃんと読んでない。
これは怠慢か。いや、タイミングだ。『ジークアクス』も『小市民シリーズ』も『九龍ジェネリックロマンス』も終わっちゃってさてどうしよう、『よふかしのうた』2期が始まるらしい…このタイミングだ。
タイミングってある、が、まーその、怠慢には違いない。反省。
『よふかしのうた』。
予想通りのど真ん中。予想以上のわっくわく。いいわー。コトヤマさんはなんなんだろ、静かなる変態とでも呼べばいいのかしら(褒めている)。私が男子中学生ならほっとかないよほんと。性癖の宝石箱かよ。
…ちょっとよすぎて表現おかしくなってるな。好き。アニメはアニメで美しく、オープニング&エンディングの尖りっぷりが何度観ても嬉しい。クリーピーナッツかっけえ(いまさら)。
そんな感じでよい感じなのだが。
ひとつ気になることがある。
いやこのアニメに対してじゃない。ずっと気になってたことを思い出しただけなんだけど。ほんとどうでもいいっちゃどうでもいいことなんだけど。
なんで。
「吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になる」
んだろう。
えーと。
理屈はつけられるんだよ。でもさ。なんかずっとモヤモヤしてる。もうほんとずーっと。
たとえば「蚊に刺されると痒くなる」のは、蚊が血を吸うときに人体に唾液を注入するからだ。だったはず。勢いで書いてて調べてないけど。間違ってたらごめんなさい。
たとえば「ゾンビに噛まれたらゾンビになる」のも(たぶん作品によりまくるけど)おおむねなにがしかの菌なりが人体に入るから、という設定だろう。
つまり「人体になんか入った結果として、その人体がなんか変化する」。これはわかる。現実の科学に即してなんていなくても。
しかし。
吸血鬼だけ「吸われると」がメインウェポンなのだ。
なんで「吸われると」なんだ。違うだろ吸うときなんか入れてんだろ。そりゃ血は減るけどさ、吸われただけで吸われた側が根本的に変質すんの、おかしいだろ。
つまり言うなれば吸血鬼化は「きゅうけつ」ではなく、「かみつき」(からの「ちゅうにゅう」)で発動してるはずなんだ。きっと「吸血鬼に噛まれると」って表現してる作品もあるだろうが…あったか?やっぱあんまなくないか?
あー書けば書くほどどうでもいいな。どうでもいいのに。
もちろんわかってる。「血を吸われると」という条件付け、その表現技法で情緒もエロスも爆上がりなのだ。それは確かに重要なこと、ときに最重要なことなのだ。
作品内で理屈がつけられてないなら前述のように菌なり鬼の血なりマナなりなにがしか注入されてると考えればいいさ。またはそう、血と一緒に生命なり魂なり吸い取られて「人間がそれを失った状態」がすなわち吸血鬼、という解釈もできる…うーんこれは眷族とか隷属の感じは出るけど…吸血鬼感は違う気がするな。
でも。やっぱり。でも。
あくまで所感だし、やっぱりどうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。なんだかファンタジーの魅力とは無関係なところで、ファンタジーであれど理論的であってほしいところがそうなってない気がして心が吠える。納得いかない。なんというか。
目的に流されすぎている気がするんだな。「血を吸う」という行為が喚起するその情緒とかエロスとかが、ご都合主義的に扱われすぎている気がする。「難しいリクツはいいじゃない。みんなこういうのが好きなんでしょ?」…それはまあそれは異論ないんだけど。
純粋に美しかったり、性的であったり、耽美であったり。もちろんそういうものが大好きだけど。
向かい合うには、襟を正していきたい。理論的でありたいというのはそういう、私の自分勝手な向き合い方。
理論的であるべきと感じる部分と、ファンタジーでガンガンはっちゃけちゃってほしい部分は別。消費者の私は重箱の隅をつっつく。贅沢に、しつこく。
そもそもこの設定はどこスタートなんだろうと吸血鬼について調べようとするが、裾野が広すぎてすぐには掴みきれぬ。さすがは怪異の王。
私は敬意を持ってこのモヤモヤを引きずりまくりながら、王の足元に、跪く。