INVISIBLE ONE/『ジークアクス』

ぼやぼやしてたらジークアクスはまもなく最終回。

最終回直前にこれを書いている。実際私ぼやぼやはしてない。始まったときからザワザワしてたしここ2週間ほどはずっと感情がズタズタでぐちゃぐちゃである。

見えないのだ。物語が見えない。

最終回直前にこれを書いている。いま書いとかないと。見終わったらたぶんもう書けない。見終わったらたぶんこの気分も霧消する。

ガンダム世界の知識が足りないのはわかっていたこと。付け焼き刃で敵う相手ではない。付け焼き刃で叶う願いではない。情熱に突き動かされることも、必要性に迫られることもなかったこれまでの私をただ後悔し、ただ諦め、それでもこれをこれからの糧にできるか自問し震えながら、物語を読み解こうとする。

見えない。物語が見えない。物語の行き着く先が、目指すところが、見えない。

パラレルワールドが説明されてしまう。その存在が、それを観測する方法が、そこに干渉する方法が、説明されてしまう。

私は、現実の私は、自分の傾向として「離人症的である」と認識している。病というほどのことはないが「現実だと認識しているものがその通りだとは限らない」という感覚が強いタイプの人間だと思う。そういう感覚で「パラレルワールド」というものについても、長らく考え続けてきた。

パラレルワールドは、別の世界線は、異世界は、確実に存在する。その感覚に迷いはない。でもそれを観測する方法は?そこに干渉する方法は?

それは「ない」。世界が完璧で信頼に足るものであればあるほど、それは証明できない。

それに対する「たとえばその方法は」を求めて、私はこのタイプの物語を観ているのだ。ただその一点。

ジークアクスにおいてその方法は。観測と干渉を可能にする条件は。

「ニュータイプだから」。

ああ。そうか。そうだな。

私はニュータイプじゃない。

この現実、私がかろうじて現実だと思い込んでる現実の世界にもパラレルワールドがあって、それをめぐるドラマや闘いの物語があって、そして、ニュータイプではない私がそれを感じることはない。

この手の物語を観る時の私はいつもこうなってしまう。物語はいつも他の誰かのものだという感覚が強くなって、心が冷えていくのを感じる。ララァの話しているシーンを観てからあとは、ずっとさみしくて仕方ない。

たとえば、異を唱えてくれたらと思っている。ここまでぜんぶ自意識過剰な高校生の妄想でした、って。パラレルワールドなんてあるわけないでしょって。

たとえば、風穴を空けてほしいと思っている。しょせん私が抱えられる程度の空想などすべて飛び越えて打ち砕いて、くだらない私を殺してほしい。

叶わないのだ。世界は観測され、干渉し合い、物語は主人公たるニュータイプたちに託された。ひとりよがりな私の望みは当然に、ひとつも叶わない。

それとも、「この手の物語」だと認識して、私は楽になろうとしているのだろうか?さみしい、上に、さもしい。

ジークアクスはジークアクスだ。この手の物語のひとつ、などではない。彼女たちは生きていて闘っている。いや話を大きくしてる場合ではない。いいアニメなのだ。観ていて楽しいのだ。知識の足りない私にも、さみしいさもしい私にも、終わりを見届けるチャンスをくれる。

12話は短すぎるけれど、語るべきことは語られ、終わりはくる。この宇宙で、この時に。私のためではない、向こう側の物語の、終わり。