to being, or not to being/日立の樹
明治神宮に散歩に行く。
もちろん参拝するが、他にも見どころはたくさんあるのだ。
ただただ大きな樹を眺めているときもある。
立入禁止の草っぱらの先に、大きな樹。
夏。晴天。無人の草原に、ひとり立つ大木。
頭の中では「日立の樹」の歌が流れている。
このーきなんのきー、である。日本人ならだいたいわかってくれるはず。
そんななんでもない日常だが、
ふいに、どうでもいい事実に気付いて、驚愕する。
2番くらいの歌詞に、
みたこともーないきですからー
という部分がある。
ちゃんと調べたわけではないけどこの歌詞はたぶん「見たこともない木」だ。普通に聞いて考えたらわかる。わかるはずなのに。
私は今それに気付いた。まじか。今か。
じゃあ、今までなんだったんだよというと。
私の中では
「見たこと、もうない木」だった。
見た、こと。
もう、無い、木。
もうない木なんだ。見たことあった、何度も見た、あの懐かしい木。今はもうない。今はもう画面の中でしか見れないあの木。今はもう心の中にしかない、あの木、ですから…
…
地獄のように手前勝手に解釈を付け加えている…!
日本語として成立してないし、いや詩なんだから厳密な成立なんて必要ないんだけど…完全に私の気分で曲解してるじゃん。
違う。これは、失われしものたちへの鎮魂の歌ではなかったのだ。見たこともない、未来へのワクワク感を歌っていたのだ。はなーがさくでしょうー、て言ってるもんなあ…。
恥ずかしい。もはや誰に恥ずかしがることもできないが、作詞者にはお詫びの気持ちを忘れずにおこうと思う。ごめんなさい。
とはいえ。
正直に言えば、これで勝手に意味が倍になった気もする。ただただ勝手に、あの歌とあの樹が私の中でバージョンアップした。
勝手にインスパイア・ザ・ネクスト!