怪物になれなかったすべての私達へ/『祝福』
『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を見始めた。まだプロローグと1話。可能性しかない。いろいろ攻めた内容だなと思った。これからの楽しみ。
YOASOBIさんの『祝福』が染みた。
YOASOBIさんの人気が低迷してるみたいな話を聴いて、どう考えればいいのか考えていた。もちろん「一時期に比べれば」なわけだし、その一時期はほぼ日本一だったわけだし…でも、いや、世間のことを言い訳にするのはさておいても。このところは何か、攻めてないような、似た形で満足させられているような、言葉選びがわかりやすすぎるような、何か物足りなさを感じていたような、気がしていた。
ああ、消費者風情が偉そうに。吐きそう。
『祝福』が、そんな気持ちを吹き飛ばしてくれる。ぐだぐだ考える余裕をくれない、いい歌だ。
祝福しているのは誰だろう?
アニメに付随する情報の中で言えばおそらくアイツらしいんだけど、曲を聴いた私は。
それは「怪物」なのだと、勝手に連想した。『怪物』で語られた「僕」。怪物の如き何かと闘うために自らも怪物になる決意をした「僕」。『ただ君を守るために』。そして守ろうとしていた君が今、呪いの鎖を断ち切ろうとしている。『いつの間にかこんなに強く』…
祝福しているのは誰だろう?祝福されているのは、誰だろう?
怪物は二人になったのだ。
孤独でも、誰にも理解されなくても、それでも闘うと決めた怪物の、隣に立つ者が、いるのだ。その名はすでに「怪物」ではない。その隣に立つ者もまた、怪物ではない。二人のナニカが歩み始める道。
祝福する者もまた、祝福されているのだ。
そんな気持ちで『水星の魔女』を観直してみたら、今度は、どこかから
「呪われることすら才能」
って言葉が落ちてきた。ああ、そうだな、もはや呪われることすら才能の時代なのか。って思ったら、涙がにじんだ。
きっと呪われることも、祝福されることもない私だ。それもまた呪いであり祝福なんだって、思えるまでは、生きるのだ。